らくらく化学実験_つれづれ化学草子 鏡の巻
うちつけに海は鏡の面のごとなりぬれば
土佐日記 紀貫之
・・・いや吹きにいやたちに、風波のあやふければ、楫とりまたいはく「幣には御心のいかねば、御舟もゆかぬなり。なほ、うれしとおもひ給ぶべきものたいまつり給べ」といふ。またいふにしたがひて、「いかがはせむ」とて、「眼もこそ二つあれ、ただ一つある鏡をたいまつる」とて、海にうちはめつれば口惜し。さればうちつけに海は鏡の面のごとなりぬれば、ある人のよめるうた、
ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな
 いたく、住の江、忘れ草、岸の姫松などいふ神にはあらずかし。眼もうつらうつら、鏡に神の心をこそ見つれ。

「語 訳」
・・・いよいよ風は吹き強まり、波が荒立って危なくなってきたものですから、船頭がまた言うことには、「幣(ぬさ)では神様がご満足されないので舟が進まないのです。もっとお喜びなさるものを奉納なさいませ。」!船頭が言うがまま、「どうもしかたない」と言い、「眼だって二つあるのに、たった一つしかない鏡をさしあげますよー。」と、海に投げ込むはめになってしまい、なんとも口惜しいことでした。そしたら、たちまち海は鏡の面のように静まったので、ある人が詠みました歌は、「荒れ狂う海に猛々しい神の御心を見ましたが、一方鏡を投げ込んだことで(別の面の)御心も見ることになりましたよ」。
 とても、住吉や忘れ草、岸の姫松などと優美なことを言う神様ではありませんよねえ。この眼でまざまざと鏡に神の心を映して観たことです。(訳:山田暢司)

神秘な鏡
 
土佐日記中の有名な段、住吉への紀行文からの引用で、荒れ狂う海をなだめるために幣を奉納したが、そんなものでは神様はご満足いかず、貴重な鏡を奉じたらたちまち海は鏡面のように静まったという話。作者の紀貫之のように旅に鏡を携帯するのが一般的であったものか定かではありませんが、話にあるように鏡は神様が欲しがるほど貴重な物として扱われています。また、鏡は古代の人たちにとって神秘的な存在であり、左右対称とはいえ実像を映し出す鏡はどこか別の世との接点を持つ異様な物として見なされていたに違いありません。そう言えば、某童話の「鏡よ鏡よ…どうか答えておくれ…」というフレーズにも、鏡の持つ不思議な力が象徴されています。
 鏡の歴史ですが、太古の昔には水に自からの姿を映し見ていたものが、岩石や鉱物を研磨するようになったことが数々の遺跡から確認されています。鏡らしい鏡、つまり金属鏡で最も古い物としては、銅を主体としたものが、エジプト第6王朝(紀元前2800年)の墳墓から発掘されています。日本については、弥生時代にはすでに銅とスズの合金でできた青銅による農具、銅鐸、銅鉾とともに、銅鏡が製造されています。特に、青銅の鏡は三種の神器(八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊玉)のひとつとして皇位の象徴とされたことからもわかるように、大和政権下の古墳時代には多くの青銅鏡が作られていたようです。
画文帯環状乳神獣鏡 椿井大塚山古墳より発掘
提供:椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡
ずっしりした手応えがあり、十分に鏡の役を果たす。(小倉教諭作成)

合金の成分により色に違い

 日本各地の遺跡から出土した銅鏡の成分%比を分析すると、銅:スズ:鉛=60-90:2-30:3-8(銅鐸の場合は銅:スズ:鉛=78-94:4-14:1-9)となっています。実際に製造してみるとよくわかるのですが、銅の含有率が高いほど黄金―赤色を帯びていかにも金属鏡という雰囲気になります。一方、スズの割合が高くなると白銅色になって映り方は自然な感じになりますが、割合が高過ぎるともろく割れやすくなってしまいます。古代の鏡は比較的銅の含有量が高いものが多いので、鏡面は黄金色に光り輝いていたのではないかと推測されています。その魅惑的な光沢は、金属製品がなかなか入手できなかった古代の人々に対し、支配者の権威を示すのに十分な効果を発揮したのではないでしょうか。

 大和政権より時代が下って、奈良〜平安の世になると鏡の製造技術も向上し、引用の住吉への紀行文にあるような海面に見立てるほどの鏡も多く出回るようになりました。その後、14世紀のヨーロッパでガラスに水銀アマルガムを付着させる方法が発明されましたが、日本で初めてのガラス鏡は、天正時代に宣教師フランシスコザビエルが持ち込んだものであると言われています。19世紀には硝酸銀法が開発されて、その後さらなる改良を経て現在に至っています。

人類が初めて手にした合金・・・・・・銅(Cu)の単体は、融点1085℃、スズ(Sn)は融点232℃ですが、混ぜ合わせることによって凝固点降下が起こり、スズの割合を約30%にした場合の融点は700℃程度となります。合金にすることで、低温での鋳型加工や彫金が楽になるのです。銅とスズの合金は青銅(=ブロンズ)と呼ばれ、人類が初めて天然に産出する金属に手を加えて造り出した合金であり、約6000年ほど前に興った加工文化は青銅器文明とも言われます。鉄製造の技術が興るまでの長い年月、一般的な金属として様々な形で利用されてきましたが、我が国でも弥生時代には多くの青銅が生産されるようになり、各地の遺跡から器を始めとした生活品や装飾品、鏡、仏像、釣り鐘、戦闘時の防護具や鉾、剣などが発見されています。中でも銅鐸が有名で、その独特な形状(音を鳴らす構造?)は古代の我が国の一定時期にのみ見られるもので、祭祀に使用されたのではないかと考えられています。このように青銅製の鏡や銅鐸などの遺跡物は、その後一般化した鉄器が錆びやすく形を残しにくいのに比べ、当時の形状を止めている物も多く、古代の政治状況や文化を知る上で貴重な資料となっています。

卑弥呼の鏡
 古代鏡が出土するたびに、新聞の見出しに「今度こそ卑弥呼の鏡か?」の文字が踊ります。それもそのはず、古代日本の姿(大和朝廷の始まりなど)を知るためには、邪馬台国との関連を明確にすることが重要であるからです。卑弥呼についての唯一の資料となる魏志倭人伝には、女王卑弥呼が魏王より鏡百枚を与えられたという記述があり、鏡の出土状況が事の解明のヒントになると考えている人が多いようです。もっとも、鏡そのものは簡単に人手に渡ってしまうので、出土場所そのものが邪馬台国の存在場所を確定することにはならないとは思いますが…。

 魏志倭人伝は晋の陳寿(233-297)が記した「三国志」の中の魏書の通称で、「東夷」の条に収められている倭についての部分の事を指します。銅鏡百枚について記述されているのは次の部分です。
「本文」(略)・・・其の年十二月、詔書は倭の女王に報じて曰く、「制詔。親魏倭王卑彌呼。・・・(略)・・・今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬(しじゅ)を假(か)し、装對し帯方の太守に付し假授せしむ。・・・(略)・・・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠鉛丹各五十斤、皆装對して難升米と牛利に付す。

「訳」その年の十二月、詔書を発し、倭の女王につたえるため、次のように言った。「汝を親魏倭王卑弥呼に任命する。・・・(略)・・・いま汝を親魏倭王とし金印と紫綬を与えようと思う。装封して帯方郡太守に托し汝に授ける。・・・(略)・・・金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を与えよう。これらの品物はすべて装封して難升米と年利に託した。・・・
    関連実験:青銅鏡の製作
    関連実験:
銀鏡反応
    関連実験:
アルミ缶の再利用
「参 考」
  土佐日記(紀貫之 三谷榮一訳注)
  懐風藻(江口孝夫全注訳 講談社学術文庫)
  鏡の力鏡の想い(中村潤子 大巧社)
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編集:山田暢司