<セレンディピティ:気づく資格・能力>

 18世紀のイギリスの政治家「ウォルポール」が、セレンディピティ(現在のスリランカ)の3人の王子についての童話を紹介している。王子たちが旅の途中で、自分達が進んでいる道の左側の草だけが少なくなっていることから、片目のロバが歩いていたことに気づくという話である。意外な出来事との遭遇が、もともと探していなかった何かを発見するという引用が、その後、主に科学の世界で意外なる発見を表する言葉として、「セレンディピティ(serendipity)」が定着する。

 理科総合の授業で、ニュートンが、「リンゴは落ちるのに背後にある月はなぜ落ちてこないのか、いや月も落ちているはずだ。」ということに気づいた、あれである。しかし、勘違いしてはならないのは、偶然に何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「気づき」を指すということだ。凡人ならさして関心を持たずに見過ごしてしまう些細なことでも、それまで真摯に考察し、研究にいそしみ努力した人だけに訪れる「それに気づく資格・能力」ということなのである。「セレンディピティ」を、たまたま偶然に宝くじに当たったかようなラッキーと解釈するのは間違いなのである。

 さて、今年も入試の合格発表があり、クラスも出席番号順も部活動など、様々な活動を通して、知り合い、出会いがあることであろう。これらは偶然の事象なのだろうが、もしかしたら、入試問題の記号一つで、今や別の高校に入学しているかもしれないのである。それを単に偶然と考えるか、何か別の必然とつながっているのかもしれないと考えるかで、ずいぶんと世の中に対する見方は変わってくる。実は、このちょっとした初期条件が、その後の人生の方向性を決定づけることになるかもしれない、と考えられる能力があるかどうかなのである。

 机を整理していたら、1年の秋、オーストラリアからの訪日団を紅花染め実験に招待したときの写真が出てきた。旧8組の実験授業を使ったのも偶然だったが、オーストラリアの生徒の中に、ほんの少しだけ日本の文化に触れたことがきっかけで、いつの日か日本を支援するような活動に寄与してくれる人が出てくるかもしれないのである。

 担任もこの間、個人的には父との死別があったが、生前に父親を学校に連れてきたときに聞いた話では、校門のロータリーの植木や石、化学室前の庭園は、父が全県のPTAの活動の一環で、だいぶ前に造ったものであると知った。(実は、焼きいもの際にツツジの枝を何本か枯らしてしまった・・・) 
 父があちこちの学校の造園を手伝っていたということを、その後教員になった自分は、全く知らなかったのである。たまたま、自分がこの学校に赴任しなければ、そんなことを話題にすることもなく死別していたことだろう。
 
 次の写真もたまたまシャッターを押したに過ぎない結果である。この打者は、直後にランニングホームランを打つことになる。しかし、カメラを構えるという必然動作を実践しなければ、永久そのシーンが記録されることはなかったのである。この機会に、身近な人との「出会いと気づき」、「セレンディピティ」について考えてみてはどうだろう。

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Script by 山田暢司